福田雄一映画の既視感は、押井守の"終わらない学園祭前夜" メモ

福田雄一映画の既視感は、押井守の"終わらない学園祭前夜"?

そこからのエクソダステロリズムに接近する、堂本剛か?

文化への不満、フロイト

 

 

 

 

 

今井書店 本の学校メモ@米子

書店の入口が小洒落た雑貨売場になってしまっていた。そうして、思想書や哲学書の書棚が窮屈そうに追い遣られている。こういう本は、自分の頭で考えるために必要なもののはずだった。そのことを知っているはずの本の学校(本屋)が、本を売らずに雑貨を売っている。悪意なく、そうしているのだから、厄介だと思う。

もはや悪意すらない、廃棄処分。

映画『無限の住人』メモ

無限の住人は、すでに善悪が相対的なものにすぎないと高を括っており、にもかかわらずそうした善悪にもとづかなくとも(つまり、他人を説得しえないとしても)、愛や憎しみは正当なものなのだ、とする。

AからみてBが悪だったとしても、BからみてAは悪である。これをAなりBなりの「主観」とすると、「客観」にあっては、A、Bとも善悪では根拠づけられない。したがって、愛や憎しみを善悪で根拠づけようとするときには、「主観」にとどまりつづけることを必要とする。いわく「相手の立場に立って考えよう」などといっても、おさまりがつかないのだ。あざとい、かまとと。

ところが、とどのつまり善悪の根拠づけは放棄されざるをえない。そして他人の説得をも放棄され、愛や憎しみのみがのこり、ただ孤独が、のこる。

無限の住人』が映画じしんの比喩だとかんがえてみたい。映画はこの孤独によりそうのだろうか。

映画『15時17分、パリ行き』メモ@MOVIX日吉津

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映画『15時17分、パリ行き』において演者が役者ではない、ということは、映画の観者にとっては、外在的な条件にすぎない。主人公役を役者が演じているのか、そうでないかは、映画内においては語られないし、また、たとえ語られたとしても、それを見分けることはできないからだ。大根役者すら役者である。したがって、この外在的な条件を、『15時17分、パリ行き』の特異性としてとりあげると、見当ちがいなものになるだろう。むしろ、そのように問うならば、じっさいはまったくさかさまに、「映画は役者によってこそ演じられる」という前提こそが、問われていることに気付かされることになる。映画の観者にとって、役者は外在的な条件にすぎない。そして、観者のみならず、まさに映画にとってさえ、それは外在的な条件にすぎない。

私は、映画を観終わって、映画『15時17分、パリ行き』の公式ウェブサイトで見るまで、主人公役を役者でない本人が演じていることを知らず、そして迂闊にも気付くことができず、結末のフランス政府の授与式の映像や、エンドロールで本名が映し出されたとき、「あるいはもしかすると」と訝しむだけだった(要するに、タリス銃乱射事件を知らなかったのだが)。

では、映画にとっての内在的な条件とは何か。その内在的な条件は、役者/役者でないの識別を無効にしてしまう。いや、そのような識別がそもそも無効なのであり、たんに観者が持ち込んだものであったのだ。銀幕のスターしかり。

2

これは、とんかつ屋のとんかつと、一般家庭のとんかつのどちらのとんかつがうまいか、という話をしてもしようがない、ということでしかない。そんなことは誰でも知っている。したがって、外在的条件の特異性が、まさに特異性として通じるのは、「とんかつ屋のとんかつが一般家庭のとんかつよりもうまい」と手前勝手に思っている手合いのみである。そしてこの手合いは、ばあいによって「とんかつ屋のとんかつでないのに、どうしてこんなにうまいのだ」と、驚いたりする。

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「実話に基づくから」あるいは「演者が本人だから」が、この映画の特異性なのではない。そのような識別を無効にしているから、私はこの映画に心打たれる。演出されているのはドアで隔てられた内と外、その識別が無効であったことを示し、私がまさにその(外なしの)内にいることを示すことではなかったか。

シンディ望月さん Rock, Paper, Scissors に寄せて@米子市美術館

記憶が呼び戻される。

ナショナル・アイデンティティ 、山郷の聞き書き民俗学等々。

その必要があるとき、しばしば記憶は呼び戻される。

しかしながら、その記憶が、記憶を呼び戻す主体によって、きわめて恣意的に、都合よく呼び戻されるようなとき、その記憶は信を置けない。

卑近な例、『大山開山1300年』『古事記1300年』などというキャンペーンは、キャンペーンとして消費されるにすぎないし、どんな歴史、記憶にも寄与しない。『誰が記憶を所有するのか@鳥取県立博物館』と問うて、その記憶に揺さぶりをかける試みがなされるなか、そのようなたんに消費されるままのキャンペーンに乗ずることは、誰もできない。誰もが信じていない屑である。『宇沢弘文記念フォーラム』も、「米子に、同郷にこんな有名人がいたんですよ」ではなにひとつうるものはない。

そうしたなか、シンディ望月さんの Rock, Paper,  Scissors @米子市美術館は、考古学者よろしく歴史と記憶の断片を発見してゆき、そうして、こんどはその断片から、物語、フィクションを紡いでゆく。しかしながらその物語は、恣意的な、都合よく呼び戻されるような記憶ではない。ロジックが見い出される。

注目されたのは、 Scissors の巨人が「K」に要求する、視覚と記憶の交換である。われわれが見るためには、記憶を引き渡さなければならない。すなわち、われわれがいまこうして見ることができるのは、かつて(やがて)記憶を巨人に引き渡した(引き渡す)からだ、と。

物語によって、記憶を呼び戻すこのインスタレーションがラディカルに告げるのは、記憶が盲目をもたらす、という逆説だった。すなわち、見ることができるのは忘却の結果である。もはや忘れたことすら思い出せないような。

同じくして、幻灯機の映像が投射されていたのが、紙のスクリーンであると気がつくのだった。それははなからそこにあったのだ。紙が剥落したとき、そのとき、過去、現在、未来への穴があく。

映画