シンディ望月さん Rock, Paper, Scissors に寄せて@米子市美術館

記憶が呼び戻される。

ナショナル・アイデンティティ 、山郷の聞き書き民俗学等々。

その必要があるとき、しばしば記憶は呼び戻される。

しかしながら、その記憶が、記憶を呼び戻す主体によって、きわめて恣意的に、都合よく呼び戻されるようなとき、その記憶は信を置けない。

卑近な例、『大山開山1300年』『古事記1300年』などというキャンペーンは、キャンペーンとして消費されるにすぎないし、どんな歴史、記憶にも寄与しない。『誰が記憶を所有するのか@鳥取県立博物館』と問うて、その記憶に揺さぶりをかける試みがなされるなか、そのようなたんに消費されるままのキャンペーンに乗ずることは、誰もできない。誰もが信じていない屑である。『宇沢弘文記念フォーラム』も、「米子に、同郷にこんな有名人がいたんですよ」ではなにひとつうるものはない。

そうしたなか、シンディ望月さんの Rock, Paper,  Scissors @米子市美術館は、考古学者よろしく歴史と記憶の断片を発見してゆき、そうして、こんどはその断片から、物語、フィクションを紡いでゆく。しかしながらその物語は、恣意的な、都合よく呼び戻されるような記憶ではない。ロジックが見い出される。

注目されたのは、 Scissors の巨人が「K」に要求する、視覚と記憶の交換である。われわれが見るためには、記憶を引き渡さなければならない。すなわち、われわれがいまこうして見ることができるのは、かつて(やがて)記憶を巨人に引き渡した(引き渡す)からだ、と。

物語によって、記憶を呼び戻すこのインスタレーションがラディカルに告げるのは、記憶が盲目をもたらす、という逆説だった。すなわち、見ることができるのは忘却の結果である。もはや忘れたことすら思い出せないような。

同じくして、幻灯機の映像が投射されていたのが、紙のスクリーンであると気がつくのだった。それははなからそこにあったのだ。紙が剥落したとき、そのとき、過去、現在、未来への穴があく。