映画『15時17分、パリ行き』メモ@MOVIX日吉津

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映画『15時17分、パリ行き』において演者が役者ではない、ということは、映画の観者にとっては、外在的な条件にすぎない。主人公役を役者が演じているのか、そうでないかは、映画内においては語られないし、また、たとえ語られたとしても、それを見分けることはできないからだ。大根役者すら役者である。したがって、この外在的な条件を、『15時17分、パリ行き』の特異性としてとりあげると、見当ちがいなものになるだろう。むしろ、そのように問うならば、じっさいはまったくさかさまに、「映画は役者によってこそ演じられる」という前提こそが、問われていることに気付かされることになる。映画の観者にとって、役者は外在的な条件にすぎない。そして、観者のみならず、まさに映画にとってさえ、それは外在的な条件にすぎない。

私は、映画を観終わって、映画『15時17分、パリ行き』の公式ウェブサイトで見るまで、主人公役を役者でない本人が演じていることを知らず、そして迂闊にも気付くことができず、結末のフランス政府の授与式の映像や、エンドロールで本名が映し出されたとき、「あるいはもしかすると」と訝しむだけだった(要するに、タリス銃乱射事件を知らなかったのだが)。

では、映画にとっての内在的な条件とは何か。その内在的な条件は、役者/役者でないの識別を無効にしてしまう。いや、そのような識別がそもそも無効なのであり、たんに観者が持ち込んだものであったのだ。銀幕のスターしかり。

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これは、とんかつ屋のとんかつと、一般家庭のとんかつのどちらのとんかつがうまいか、という話をしてもしようがない、ということでしかない。そんなことは誰でも知っている。したがって、外在的条件の特異性が、まさに特異性として通じるのは、「とんかつ屋のとんかつが一般家庭のとんかつよりもうまい」と手前勝手に思っている手合いのみである。そしてこの手合いは、ばあいによって「とんかつ屋のとんかつでないのに、どうしてこんなにうまいのだ」と、驚いたりする。

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「実話に基づくから」あるいは「演者が本人だから」が、この映画の特異性なのではない。そのような識別を無効にしているから、私はこの映画に心打たれる。演出されているのはドアで隔てられた内と外、その識別が無効であったことを示し、私がまさにその(外なしの)内にいることを示すことではなかったか。