映画『無限の住人』メモ

無限の住人は、すでに善悪が相対的なものにすぎないと高を括っており、にもかかわらずそうした善悪にもとづかなくとも(つまり、他人を説得しえないとしても)、愛や憎しみは正当なものなのだ、とする。

AからみてBが悪だったとしても、BからみてAは悪である。これをAなりBなりの「主観」とすると、「客観」にあっては、A、Bとも善悪では根拠づけられない。したがって、愛や憎しみを善悪で根拠づけようとするときには、「主観」にとどまりつづけることを必要とする。いわく「相手の立場に立って考えよう」などといっても、おさまりがつかないのだ。あざとい、かまとと。

ところが、とどのつまり善悪の根拠づけは放棄されざるをえない。そして他人の説得をも放棄され、愛や憎しみのみがのこり、ただ孤独が、のこる。

無限の住人』が映画じしんの比喩だとかんがえてみたい。映画はこの孤独によりそうのだろうか。